GAKKEN SPORTS BOOKS 最新版サッカールールブック
最新版
サッカールールブック
監修: 高田静夫
著: 三村高之
とっつきにくいサッカールールの内容を、日本人が理解しやすいようにジャンル分けして構成。判定の難しいケースもイラストを多く使って、簡単にわかるように解説。「日本でいちばんわかりやすいルールブック」の最新版。何かあったときに簡単に調べられる。
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ホルヘ・三村

南米通信 ~ラ・ビダ・デ・ホルヘ~

ホルヘ・三村
1960年10月23日生まれ。東京都出身。元々の南米サッカー好きが、89年のコパ・アメリカ取材を契機に沸騰。91年、気がつけば職を捨て、単身エクアドルに立っていた。現在はアルゼンチンのブエノスアイレスを拠点に、コパ・リベルタドーレス、コパ・アメリカ、ワールドカップ南米予選や各国リーグを取材している。そのかたわら、酒を中心とした南米各国のナイトライフにも造詣が深い。というよりそれに溺れ、酒とサッカーの日々を送っている。

アルゼンチン

■監督出世物語

2018.06.15

5人のアルゼンチン人が
ワールドカップを指揮する中
変わり種はサンパオリ

ロシアワールドカップには、エクトル・クーペル(エジプト代表)、フアン・アントニオ・ピッシ(サウジアラビア)、ホセ・ペケルマン(コロンビア代表)、リカルド・ガレッカ(ペルー代表)、ホルヘ・サンパオリ(アルゼンチン代表)と5名ものアルゼンチン人が監督として参加する。

ペケルマンは前回のブラジル大会にコロンビアを16年振りに出場させ、ガレッカはペルーを1982年スペイン大会以来36年振りにワールドカップへ導いた。このような手腕がアルゼンチン人監督の評価を高めている。

上記5名のうち4名は現役時代も名選手だったが、変わり種はアルゼンチンを率いるサンパオリ。地方のアマチュアリーグでプレーしていたがケガのため19歳で引退。つまり、プロの経験すらないのだ。しかしサッカーへの情熱は捨てがたく、会社員として働きながら指導者の道を志し、34歳のときに自分がプレーしていたチームの監督となった。ベンチから退席を命じられた試合では、グランドの外に生えている樹木に登りそこから指示を出していたというエピソードがある。

その後いくつかのチームを指揮したが、カテゴリーはセミプロの3部リーグ止まり。監督があふれているアルゼンチンでは、選手として実績のない者が高いレベルで仕事をするのは難しい。そこでサンパオリはペルーへ渡った。

南米では、アルゼンチンの監督ライセンス制度はしっかりしていると定評がある。監督ライセンスを取得するには、週3回のクラスに2年間通わなければならないのだ。このためサッカー大国ブラジルを除けば、この資格保持者への信用が高い。そしてついに、フアン・アウリッチという小さいながらも1部リーグの監督となり、その後スポルト・ボーイズ、スポルティング・クリスタル、コロネル・ボロネッシを指揮する。

今年柏レイソルに復帰した澤正克がC・ボロネッシに所属していたとき、ホルヘは彼を取材に行った。そして、そのときの監督がサンパオリだった。このクラブはペルーの最南部タクナをホームとし、創設以来ずっと3部以下のリーグに所属していた。2000年に1部に昇格するも、現在は再び地方リーグに降格している。サンパオリと澤が所属していた時期も経済的には困窮しており、練習グランドには掘っ立て小屋の物置があるだけ。また、クラブだけでなく所有者である市の責任もあるが、ホームスタジアムのシャワーはお湯が出ない状態だった。

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ビエルサを尊敬し
粘り強く出世する

サンパオリが尊敬するのは、日韓ワールドカップでアルゼンチンを率いたマルセロ・ビエルサ。彼もプロ契約こそしたもの、選手としては大成せず早々と引退した。同じような境遇ながら代表監督になったビエルサの存在は、サンパオリに勇気を与え目標となった。ビエルサは先進的な戦術家で、変人と評されるほどサッカーの虫。四六時中サッカーのことを考えて研究を重ねている。サンパオリも徹底した戦術指導を行い、C・ボロネッシで好成績を残した。澤もこの戦術の下で左ウイングとして目覚ましい活躍をし、ビッグクラブの一つであるシエンシアーノへ移籍。そこでコパ・リベルタドーレスへの出場を果たした。

頭角を現したサンパオリに興味を示したのは、エクアドルのエメレック。南米サッカー界における国のレベルとしてはペルーと変わらないものの、エメレックは歴としたビッグクラブ。そしてここで彼の指導は大成功を収め、エメレックは国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)が選定する2009年6月の世界ナンバーワンクラブに輝いた。代表、個人、クラブのすべてにおいて、エクアドルのサッカーが世界一になったのはこれが初めて。同国にとっては歴史的偉業だった。

すると今度は、ディエゴ・シメオネの後任としてチリの名門ウニベルシダ・デ・チレがサンパオリを引っ張る。近年のワールドカップ出場回数などで比べれば、エクアドルとチリはほぼ同格といえる。しかし国内の経済状況はチリがはるかに上で、当然のごとく報酬も高い。ギャラがいいから外国から好選手が集まり、リーグのレベルも高くなる。こうして彼は、また一歩階段を上った。

チリ人は南米の中では珍しく規律正しい国民性を持ち、日本人に似ている。戦術重視ということは選手を規律でじばることに通じる。他の南米諸国では選手をコントロールすることに苦労するが、チリではやりやすい。ビエルサもチリ代表で成功を収めている。これまで好成績を挙げながらも無冠だったサンパオリだが、就任した2011年前期リーグで初優勝を飾る。さらに11年後期、11年コパ・スダメリカーナ、12年前期も制して4連覇の大爆発。上記のIFFHSによる月間クラブランキングでは、2012年6月から10月までバルセロナに次ぐ2位という評価を受けた。

ついにヨーロッパ
そして母国の代表監督に

これらの実績を引っ提げ、2012年12月、チリ代表監督に就任。そしてブラジルワールドカップへの出場を果たし、翌年のコパ・アメリカではチリに初優勝をもたらす。コパ・アメリカの決勝は母国アルゼンチンが相手。ピッチに入ってきたサンパオリは、ベンチに向けて設置されてあるテレビ局の集音マイクを見つけると、10メートルほど移動させたうえ向きまでも変えてしまった。秘密主義者である彼はこのような行動が多く、マスコミからは、どちらかといえば嫌われている。

2016年にチリ代表監督を辞任しセビージャへ。ついにヨーロッパにたどり着いた。一国の代表を率い、ワールドカップに出場し、スペイン1部リーグを指揮する。監督としてはトップレベルの条件をすべて満たした。そんなサンパオリの元に、母国アルゼンチンから代表監督のオファーが届く。ロシアワールドカップ予選では苦戦が続き、ヘラルド・マルティーノが8試合で辞任、エドガルド・バウサも8試合で去り、アルゼンチン協会は彼に最後の望みを託したのだ。プロ選手になれず、国内ではセミプロしか指揮できなかった男が、ついに代表を率いるまでの出世を遂げた。

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結局、チームを劇的に復活させることはできなかったものの、予選突破という最低限のノルマを果たす。長らく同じ顔ぶれで戦っていたため、予選中に大きな変化をもたらすのは危険と考えたのだろうか、サンパオリ色というものはほとんど見受けられなかった。しかし本大会に招集したメンバーにはなじみの薄い選手が多い。彼が使いやすく、彼の戦術に合った選手を選んだからだ。C・ボロネッシで会ったときに澤やチームについての質問はしたものの、それ以上踏み込んだ話はしなかった。これほどの大物になるのなら、もっと仲良くしておくのだった。

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