GAKKEN SPORTS BOOKS 最新版サッカールールブック
最新版
サッカールールブック
監修: 高田静夫
著: 三村高之
とっつきにくいサッカールールの内容を、日本人が理解しやすいようにジャンル分けして構成。判定の難しいケースもイラストを多く使って、簡単にわかるように解説。「日本でいちばんわかりやすいルールブック」の最新版。何かあったときに簡単に調べられる。
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ホルヘ・三村

南米通信 ~ラ・ビダ・デ・ホルヘ~

ホルヘ・三村
1960年10月23日生まれ。東京都出身。元々の南米サッカー好きが、89年のコパ・アメリカ取材を契機に沸騰。91年、気がつけば職を捨て、単身エクアドルに立っていた。現在はアルゼンチンのブエノスアイレスを拠点に、コパ・リベルタドーレス、コパ・アメリカ、ワールドカップ南米予選や各国リーグを取材している。そのかたわら、酒を中心とした南米各国のナイトライフにも造詣が深い。というよりそれに溺れ、酒とサッカーの日々を送っている。

アルゼンチン

■ホルヘのクライフ

2016.04.01

 クライフが死んだ。今や南米マニアのホルヘだが、初めて好きになった外国人選手はクライフだった。彼は1960年代後半からチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)などで活躍し脚光を浴びていたが、ホルヘがその存在を知ったのは、1974年のワールドカップ西ドイツ大会だった。クライフ率いるオランダは、トータルフットボールと呼ばれる、ポジションにとらわれない当時としては画期的なスタイルを誇り、躍動感のあるプレーで勝利を積み重ねていた。中学生だったホルヘは、このオランダ代表とそのキャプテンに完全にハマった。Tシャツはもちろんのこと、ベスト、カーディガン、ズボンなどありとあらゆる衣服をオレンジ色にした。当時のファッション界ではオレンジは人気がなかったようで、ほとんどが半額以下のバーゲン品だった。もっとも今でも、オレンジ色のズボンを買う人は少ないだろう。

 私服だけではない。もちろんサッカーグッズでも影響を受けた。オランダ代表のユニホームはアディダスだったが、プーマと個人契約していたクライフは、「アディダスのシャツは着ない」と、ひとりだけ袖のラインが2本の特製シャツでプレーしていた。ホルヘもこれを真似して、2本ラインのオレンジユニを練習着として購入。3本ラインのアディダスは高いが、2本ラインのシャツは廉価で売られていた。私服といいユニといい、クライフというのは、真似をするのに経済的な選手でもあった。しかし、スパイクとなるとそうはいかない。当時プーマのスパイクは、ほとんどが西ドイツ製の輸入品だったため2万円前後した。ハガキの郵便代が10円、地下鉄の初乗りが40円、大卒の初任給が8万2629円という時代である。中学生に2万円のスパイクを買ってくれる親などいない。しかしある国産メーカーが、プーマラインのスパイクを売っていた。まずはこれを購入。当時のスパイクは、シュータンの上部に、メーカーのロゴが入った布製のタグが縫い付けてあった。プーマのシューズは、スパイクこそ輸入品で高価だったが、スニーカーなどは国産のものもあった。バーゲンで買ったスニーカーのタグをはがし、これを国産メーカーのスパイクに貼りつけて偽装完成。少しでもあこがれの選手に近づくため、ホルヘ少年は涙ぐましい努力をしていたのだ。

 もちろん、プレーも真似た。しかし家庭用ビデオなどなく、今のように気に入ったプレーを何度も見返すことはできない。そこで参考にしたのが、三菱ダイヤモンドサッカーのオープニングシーン。これはテレビ東京で放映されていた、当時唯一のサッカー番組。そういえば、そのころはテレビ東京でなく、東京12チャンネルという名前だった。オープニングシーンの映像は、毎週同じものが流される。その中に、クライフのキックフェイントがあった。サイドからクロスをあげるようにして、ボールを蹴らずにインサイドで引っ掛けて軸足の裏を通してDFの逆を突くというもの。これを、繰り返し見ては練習した。その結果、ついにマスターした。実戦で試しても、相手が次々と引っかかる。右サイドから、右足でクロスを上げる振りをして、実際にはボールを蹴らずに軸足である左脚の裏を通す。一連の動きが流れるようにできるようになっていた。しかし、真似できたのはここまで。クライフはこの後、左足のキックでチャンスを演出するのだが、ホルヘは左足でボールが蹴れないのだ。したがってフェイントを成功させても、プレーが進展しない。まったく意味のないことになってしまった。そこで、左足のキックフェイントで相手をかわし、右足でクロスをあげようと思った。しかし、ボールが蹴れない足というのは不器用なので、非常に完成度の低い、誰もひっかからないフェイントにしかならなかった。

 74年ワールドカップの決勝は、地元西ドイツ対オランダ。西ドイツのスーパースターは、ベッケンバウアーだった。ホルヘはオランダとクライフが好きになればなるほど、西ドイツとベッケンバウアーが嫌いになった。大会後、クライフとニースケンスがバルセロナへ移籍した。そしてレアル・マドリードには、西ドイツ代表のネッツアーとブライトナーが入った。南米に染まってから、ホルヘはクライフのことを意識することがなくなった。しかし、今でもドイツとレアルが嫌いなのは、彼の影響によるものだ。クライフ、偉大なり。

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